
月に日の丸?
1973年4月 フリーランスエンジニアの第一号になった。これは南極に日の丸
月に星条旗に匹敵する・・・?。実をいうとかっこよく宣言してフリーになったの
ではない。
この春、株式会社ポニーは非常事態に陥っていた。そしてついに私の退職願を受
け取った。レコードメーカー2社からさそいの話があった。僅かだが退職金を貰っ
た。コマーシャル音楽の内職は順調に続いていた。だから一年以内に決めればよい
と考えていたら「こんにち」になってしまったと云うのんびりしたお話。
ポニーブランドのミュージックテープは売れに売れていた。何を作ってもよく売
れた。カーステレオが当たり前に普及し、8トラックテープのミュージックパック
からカセットテープに切り替わった頃だ。
地下鉄赤坂駅近くのビルの三フロアを工場にしていた。生産が追いつかない。
工場はフル回転。録音のない時はカセットのラベル張りを手伝うが失敗ばかり。
社員旅行はジャンボ機チャーターでハワイへ行っていた。音源を供給していた
各レコードメーカーは商売になるとみるや引き上げ始めた。こんな時に「株式会社
キャニオンレコード」が誕生する。
ミュージックテープ部門である株式会社ニッポン放送サービスはブランド名であ
る「株式会社ポニー」に改まる。
有楽町ニッポン放送の7階から、完成したばかりの浜松町世界貿易センタービル
34階に引っ越した。しかし、レコード部門のキャニオンはとんでもない金食い虫。
いつの間にかとんでもない状況になっていた。
ついに制作がストップし人員削減になる。希望退職者を募るが定員に満たない。
二次、三次と続く。私は第一次に退職願を出した。制作がストップになったにもか
かわらず受け取ってくれない。それから辞めるまでの一年近く、用事がないかぎり
会社に行かなかった。給料はきっちり貰った。「非常時に不謹慎」と言われたが無
視「だったら辞めさせろ」と言っていたのかもしれない。
この期に及んで弱みに付け込んでいた訳ではない。私の仕事はスタジオに入って
「ナンボ」のもの。机に座っていることが仕事ではない。もとより愛社精神など全
く持ち合わせていない。すべて自分の為に仕事してきた。どんな苛酷なスケジュー
ルにも、どんなつまらない仕事にも服従、絶対にモンクは言わない。仕事は誰にも
モンクを言わせなかった。
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