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井のなかのカワズ

 ニッポン放送サービスに移った理由は、一言で言えば修業に出たいことだった。
何度か外部のスタジオでボロボロになって以来「井の中の蛙」になるのをおそれ
た。もっともっと修業したい、そう考え始めた頃だった。
「何でテープメーカーなの?」そんなことを言うヤツが沢山いた。暗に見下して
いるのだ。そんな差別しているようなアホには耳をかさなかった。

 ニッポン放送サービスは私の条件を100%満たしていた。一つはスタジオを持
たないメーカーだったこと。敢えて修業に出たいと志したからには、あっちのス
タジオ、こっちのスタジオと渡り歩くのが理想としていた。そして週二回、最先
端の設備が整ったニッポン放送第一スタジオを使える事だった。
 音楽のジャンルはクラシックからジャズまで多技にわたっていた。さらに興味
深かかったのは、パシフイック音楽出版(現フジ・パシフイック音楽出版)の存
在だった。入社条件には、この出版社の録音も担当する事になっていた。

 ニッポン放送サービスの忙しさはテイチク会館スタジオ時代の比ではなかった。
が、特に苦もなく、当たり前のように仕事をこなしていた。
そして、あちこちのスタジオを渡り歩くのはとても楽しい。毎日のように新しい
発見がある。精神的にとても充実していた。
 認められていたわけではないが、録音のない日は自由に行動していた。会社は
有楽町ニッポン放送の7階。映画街へは歩いて2分。努めて観るようになった。
ジャズを聴かせる店、スバル街の「ママ」歩いて1分。同じく銀座の「ろーく」
5分。店名は忘れたがクラシック音楽を聴かせる名曲喫茶は3分。ちょっとでも
時間があると出歩いていた。

 4階にはニッポン放送のレコード室がある。資料調べや新譜のチェック等にと
ても便利、自由に出入りしていた。試聴用の個室がいくつかあって時には一日中
こもっていたこともある。
 ニッポン放送第一スタジオは3階。コンソールが4バスのテレフンケン社製。
録音機はスチューダー製で、2、4、8チャンネルが完備されていた。マイクロ
フォン始め、エフェクター関係にしてもテイチク会館スタジオでは考えられない
程揃っていた。
 このスタジオでは渡辺貞夫の「ナベサダとジャズ」「ヴァイタリス・フォーク
ビレッジ」「新日鉄コンサート」と音楽が中心の公開録音や生放送用のスタジオ
だ。私のとても好きなスタジオ、私の多くの名録音盤がこのスタジオから生まれ
ている。


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