意を決して家を出た。いつもより30分早い。録音の前日はいつも眠れないこと
が多いのだが、昨夜は大変な問題が起こり、悶々としてうちに朝になってしまった。
前日、会社の帰り新橋駅に向かう途中、同僚のKが、少し引きつった声で「明日
の10時からの録音はオレがやるからね!」と突然いった。ほんとに突然だった。
退社した先輩から「君がやるように」といわれ、プロダクション側とも話はついて
いるという。二人だけの約束ごとだったのだろう、職場では何も噂になっていなか
った。私は始めて聞く話だった。
「だったら部長が私に決めたときどうしていわなかったの」
「部長は分かっていたはずだ」
「だからどうしていわなかったの」
「オレの仕事なんだよ!」
あらげた声がふるえ、顔色がかわっていた。今にも殴り掛かりそうな気配を感じて
「じゃそうすれば」と力なく答え無口になって駅へ急いだ。
このシフト、数日前に決まっていた。その後、Kと一緒にオーディオ部品を買い
に秋葉原へ行っている。当然このことは知っていたはずだが、何も口にしなかった。
はしゃぎながらジャンク屋をひやかしていた。
私たちの首根っこはしっかり部長に管理されていた。個人的なただの約束ごと、
「僕の仕事ですから」といえるわけがない。いったところで恥をかくだけだろう。
なんとなく辛酸をなめていた雰囲気はあった。退社した先輩が親切心で置いてい
った絶好のチャンスだったのだ。これを逃したらと焦ったのかもしれない。
彼なりに苦しんだにちがいない。理不尽だが悩みぬいてのことだったのだ。諦め
きれずあとさきの事を考えず強行手段に出てしまったのだ。彼の気持ちは痛いほど
わかった。
入社して約半年が過ぎていた。公平に回ってくるデモ録音から一歩踏み出したと
自覚していた頃だった。私にとってこの日の録音は最終面接試験の心境だった。
しかし自分でもふがいないと悔やんだ。なんで簡単に「じゃそうすれば」と引き
下がったのだろう。それはKに思いっきり殴られているからだった。
何が気に入らなかったのか突然映写室に連れ込まれ、強烈なパンチをくらった。
目から火花がとびクラッとして息が止った。このとき短気で手が早い人てある事を
知った。のちの噂では殴られたのは私だけではなかった。普段はとてもやさしい。
冗談もよく口にする。
8時30分にタイムカードを押した。急いでスタジオに入りマイクセッティング
を開始。セッティングが終わろうとしているところにKが現れた。
「部長が決めた仕事だからぼくがやる」毅然とキッパリいった。「そうだね・・・
何か手伝うことある?」しずかな声だった。もう終わっている、といったら、小さ
くうなずいて黙ってスタジオを出て行った。
上司の命令だ。腕ずくで無視してしまったらわたしもただでは済まされなかった
と思う。二人の間にひびが入っても構わない。わたしが指示通りに従えば何の問題
も起こらない。これはお互いの為だ。
入れ違いに部長が入ってきた。出て行った方を振り向きながら「セッティング手
伝ってたの」「えぇ・・」と曖昧な返答をしたら「今日の録音はディレクターから
の指名なんだ」部長は知っていたんだ。なんだかとっても複雑な気持ちだった。
『生き馬の目を抜く』とはこういうことを言うんだろうか。人を踏み台にしなけ
ればはい上がれない世界。油断もスキもない厳しい世界なんだ。
職場はヒヨッコばっかり。だからとても和気あいあいとしていた。と、いうのは
勿論表向きで、一人ひとりの裏側を覗けばドロドロと情熱を通り越していやらしい
闘争心のかたまりだった。他人を蹴落としてまでチャンスをつかもうとそればっか
り考えギラギラしていた。
私なんかは口に出すにもおぞましい、まがまがしい呪文を唱えて毎朝家を出たも
のだ。上司から「アシスタントとはいついかなるどんなチャンスにも対応できるコ
コロの準備をしておかなければならない」チーフエンジニアに何かアクシデントが
起きたらそれがチャンスなんだと解釈した。そしたら自然に口から呪文がとび出し
た。なんとおそろしいことよ。やな性格だね。かみよゆるしてつかわさい。
表向きの言い方をしよう。いやでも士気を高揚させずにいられない職場だったん
ですよ。・・・いや・・・、時代だったのかな。