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ガクガクポロポロ

 ホームページを作らなかったら30年も前のレコードなんか聴くことはなかっ
たろう。その昔、一回くらいは聴いたかもしれないが、針を落としてみるものの
何も想い出せない。そして、記憶が前後しているものも多い。
 不思議なのは、冷や汗ものでやった仕事は今でもよく憶えている。勿論テイチ
ク会館スタジオ時代駆け出しの頃だ。

 ビクターレコードの新人の録音だった。私はこの録音にアシスタントエンジニ
アとして担当した。
 この時のディレクターは「ビクターにこの人あり」といわれていた、磯部さん
という森進一さんのディレクターだった人。午前10時の開始に粗相のないよう
入念に準備していた。
 三々五々、ミュージシャンが集まって来る。それぞれ勝手に出すチューニング
音やウオーミングアップの音が騒々しい。マイクチェックをこの騒々しい音を利
用しておこなう。全てオーケーだ。ミュージシャンも全員揃った。
 アレンジャーは指揮台の上でスコアをチェックしている。いつでも音が出せる
状態だ。
 ミキサーは未だ到着していない。「遅いな」と思っていたその時だった。上司
の榊原さんがスタジオに入って来て「録音お前やれ」「はっ??・・」「来れな
くなったのでミキサーはお前だ」「やりなさい」と突然いわれた。
 この録音のピンチヒッターは私には荷が重すぎる。この日のミキサーも「ビク
ターにこの人あり」といわれていた大変な巨匠「替りが務まる訳が無い」と思っ
た瞬間、血の気が引き、脇の下に冷たいものを感じた。
「・・・はい」直ちにマイクセッティングを確認するためにスタジオ内へ。
ミュージシャンが正しい位置に着いた状態でマイクロフォンの高さと距離を調整
する。ガラスの向こうのミキサールームをチラチラのぞく。ひょっとしたら来て
るんじゃないかと・・・。榊原さんがディレクターの磯部さんと何か話している
のが見えるだけ。「嫌だな」「どうしよう」膝がガクガクになっていた。

 セッティングが終わってミキサールームに入って行くと「よろしくな」すでに
ガクガクしていた膝がガタガタと音がしたようだった。「落ち着かないと」自分
にいい聞かせながら調整卓の前へ。そしてリハーサルが始まった。
 アレンジャーが指揮する横で、ディレクターと新人歌手が、テンポ等を確認し
ながら大きな声で歌っている。何だか、とっても焦りながらバランスをとってい
た。

 ディレクターの磯部さんが「テークセブン」といったときだった。「ミキサー
替えてよ」私の夢遊病者のような耳にも確かにそう聞こえた。ドドッと脇の下に
冷たいものが流れた。
「誰だ・・・」「誰だいまのは」磯部さんがトークバックマイクを乱暴につかみ
声を荒げていった。私は調整卓に向ったまま石のようになって動けないでいた。
フェーダーに触っている指先が震えている。のどの奥がヒリヒリして唾を飲み込
もうとするが口の中はカラカラだった。
「俺だよ 何回演奏すればバランスがとれるんだよ いい加減にしなよ」大ベテ
ランのサックス奏者だ。スタジオの中がザワツキ始めた。険悪な空気になるのを
感じた。「時間がない」そんな声も聞こえた。
「時間がないやつは帰って結構だ!」磯部さんのその荒っぽい言葉を耳にした瞬
間、全身の血が騒ぎ、一気に抜け出ていくのを感じた。
 私の頭の中と耳の奥が放送の終わったブラウン管のようになった。「30分延
長してくれ、時間ない者は帰って結構、5分後に始める」私は調整卓に向ったま
ま後ろを振り返る事が出来なかった。
「気にすることはない キミの責任ではない」「うまくいくさ」そういわれて、
「そうだよ ぼくは初心者じゃない もう何度もやっているじゃないか」と自分
自身にいい聞かせていた。

 この時代の録音の常識は、一回目のリハーサルでほぼバランスが決定し、二度
目のリハーサルで完璧になる。三回目でテスト録音。これは状況によってテスト
本番ともいって、問題なければオーケーになる。通常はプレイバックし、細かな
部分を確認して本番となる。合計4回の演奏で「おつかれさま」となるケースが
多かった。ようするに本番に入ったらテークワンでオーケーになる。普通はテー
クスリーまでは常識的な回数だが、テークセブン迄いくことはない。
 本番に入るまではそれなりにバランスが聴けていた。「テークワン」とディレ
クターの声を聞いた時点でその前兆が現れていた。頭の中が白くなっていくのを
感じていた。テークを重ねていくうち、さらに白さは濃くなり音が厚い壁の向こ
うから聴えてくるように感じ始めた。ディレクターの声が宇宙人のようなエフェ
クター音に聞こえていた。
「どうしよう 出来ない」と思ったら肩から腕、指先にかけて鉄の棒が入ったよ
うに動かなくなってしまい、高速エレベーターで一気に上昇したように耳は強く
圧迫され何も聞こえない状態だった。
 心臓ドキドキ頭ジンジンわきの下タラタラ喉カラカラ手のひらベタベタ目チカ
チカひざガクガク。自分の耳がどこにあるのか、どこから音が聞こえてくるのか、
見当がつかない。ディレクターの指示も全く聞こえていない。調整卓の前で金縛
り状態になっていた。
 このパニックな状況を早くに察知していてくれたら、休憩をとっていてくれた
ら、もしかして救いがあったのかもしれない。

 5分の休憩で少し落ち着きを取り戻した感じだった。リードシートに目をやり
曲の構成を確認する。イチカッコに入り短い間奏があって、ツーコーラス。ダカ
ポしてスリーコーラス。そしてコーダー。まるまるスリーコーラスの曲だ。気を
取り戻したようだ。かなり冷静になっていた。
 「録音を開始する」「確認の意味でイントロ、ワンコーラス、エンディングと
リハーサルしよう」「それから本番に行こう」「一回で終りにするよろしく」と
ディレクターの磯部さんがトークバックマイクに向っていった。
 リハーサルが始まった。チャント聞こえている。バランスも問題ない。磯部さ
んの細かい注意に耳をかたむける。リードシートを確認しながら短い会話。何か
「フッキレタ」感じがしていて、かなり落ち着いている。妙に冷静になっていた。

 音楽はエンディングに入っていた。思いれたっぷりのテナーサックスが長い余
韻を残して終わった。マスターフェーダーを静かにしぼった。テープレコーダが
止まったのを確認しフェーダーを元の位置にもどす。スタジオの中は曲が終わっ
たときの緊張したままの静寂がひろがっている。シーンと物音ひとつしない。
かたずを呑んで指示を待っている。ミキサールームも誰も言葉を発しない。時間
にして、2、3秒のことだろうとても長い時間に感じた。その時「OKありがと
うおつかれさま」大きな声だった。と同時にスタジオの中から「オー」と歓声が
あがり拍手が聞こえた。肩をポンとたたかれ「よくやったありがとう」。全身の
力が抜けヘナヘナとなり涙をみせまいと調整卓に向ったまま振り向けないでいた。


(リードシート:スコアを簡略化したミキサー用の譜面)

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