
テイチク会館スタジオへ
病気は回復に向っていた。ようやく住い近くの病院に転院が許可され1時間以上
かかっていた通院から開放された。この頃になると会社はもう病人あつかいしてい
なかった。仕事は以前の状態に戻りつつあった。
年も改まって1966年、ラジオ番組の仕事と、本来のテレビの仕事で以前より
忙しくなった。「再発したら通院ですまないよ」医者の言葉がよみがえる。
セントポールスタジオの一件は、私のココロを大きく動かしてしまった。そして
転職する事を決意させる。全く違う世界も考えたが、同じ録音の世界で、音楽ミキ
サーになる決心をした。仕事の内容は全く異なるのだが、録音業界に居たというこ
とと、自分も音楽をやっていたという理由だ。
早速、各レコードメーカーに書類を送るがナシノツブテ。そんな時だった。洋楽
の新譜を紹介するラジオ番組の録音で、評論家でもある番組ディレクターから「テ
イチクレコードが虎の門にビルを建て、その中にスタジオを作った」という話を聞
いた。三波春夫さんの「東京五輪音頭」ビルと言われた建物だが再開発で今はない。
仲良くしてた先輩に「面接に行ってくる」と話したら「俺も辞めたい一緒に行って
イイ?」と言う。「じゃ行こう」となった。
先方は心よく会ってくれた。結果一緒に行った先輩が採用されてしまう。なんか
横取りされた感じで、ショックを通り越してただ呆然としていた。「俺って駄目な
やつなんだ・・・」悔しいけれどどうにもならない。黙って一人で行けばよかった
と悔やんだが、これも人生かなと以外にも冷静になっていた。それは「あと何人か
採用する」という言葉を期待していたのかもしれない。
彼から度々電話が入った。テイチク会館スタジオの情報をいろいろ話していた。
「そうだったのか」何故彼を採ったのかが解った。
テイチク会館スタジオは三つのスタジオそれぞれに映画やコマーシャルの仕事が
出来るよう設備していた。その部門を強化するために経験豊富な彼が採用されたと
解釈した。もし私が先に行ったら、映像関係をやらされることになったのだろうか。
私は音楽ミキサーになると決めている、一瞬「よかった」と思ったが気分は晴れ
なかった。優先的に連絡すると言っている。信じて待つことにした。
そして数ヶ月後「もう一度面接に来てほしい」この電話を待っていた。
1967年1月5日この年の仕事始めからテイチク会館スタジオ勤務となった。
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