
セントポールスタジオ事件
中央線市ケ谷駅お堀端、現在ソニーレコード本社ビルが建っている場所に市ケ谷
スタジオはあった。昭和39年(1964 )テレビは外国映画全盛期。「ローハイド」
「サンセット77」「奥さまは魔女」「アンタッチャブル」等々、外国TV映画を
日本語に吹き替えるスタジオだった。
私は音楽サークルの先輩の紹介で、卒業三ヶ月くらい前よりアルバイトを始め、そ
のまま就職して映写係りをしていた。
とてもきつい仕事だった。特に、長尺といわれる劇場用につくられた映画の吹き
替えは、朝10時に始まると、終わるのは翌日、いつもオテントサマが高くなって
からだった。
入社して数ヶ月たったころ、会社の健康診断で結核が発見される。入院すれば半
年で治ると言われたが入院しなかった。西川口のアパートから東京板橋の日大病院
へ一日おきに通院。ストレプトマイシンの注射を右腕、左腕、お尻の左右と、痛み
を和らげる為にローテーションで打っていくのだが、全身触ることが出来ないくら
い痛くなった。これが二年近く続いた。「入院したほうが良かったかな」と反省し
ていた。
この通院療養中かるい仕事が与えられた。新宿区四谷、文化放送の隣の教会の地
下にスタジオがあった。(いまもあるとおもう)その名もセントポールスタジオ。
私はここでラジオ番組の録音を任され、全てのジャンルのラジオ番組を経験した。
このスタジオに通い、半年くらいたった頃だった。前の仕事が延びていて待たさ
れていた。随分待たされるので様子を見に行く。そうっと調整室の扉を開けたつも
りだったが「ガクン」とても大きな音がした。この音でビックリ動転していた私の
目に映った光景は今でも忘れられない。
それはシルエットのように見えた。「フワリ」とスローモーションのようにひる
がえって振り向いた。頭上の白いが部分がやけに眩しく、ハレーションを起してい
るかのようだった。「扉を開ける音が入ちゃったいま録音中だったの」一瞬、何の
事か理解出来なかった。
此処の教会のシスターだった。ひとりでミキサーを調整し、レコードをまわし、
マイクの前で喋っていたのだ。ピアノの弾き語りのようにミキサー卓に伸びたマイ
クスタンドがとっても印象的だった。
この時、噂に聞いていたことが目の前の光景とダブった「アメリカのラジオ局で
は DJ がエンジニアも兼ねているらしい」
「エェェェッ?」事情が解ったときはショックを受けました。とっても複雑な気分
になりました。エラソーにしてる先輩達のフンゾリ返ったスガタがチラツキました。
この世界の封建的というか、徒弟制度というか、そんな空気を理解していたつも
りながら、疑問を感じずにいられなかった。
実力の時代と言われ始めていた頃だ、ここにいては駄目かも知れないと考えてい
た時だった。この光景を見たとき何故かとってもアセッタ。
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